『 おもてなし 』   
埼玉県所沢市  宝泉寺副住職
埼玉3号仏青会員  色摩真了

先日、友人の付き添いで、茶道教室の体験入学に出かけて参りました。
東京の一等地にあるビルの1フロアを貸し切ったその学校は、全ての教室が一般的な茶室と同じように4畳半のスペースと床の間にお花と掛け軸という構成で、伝統に忠実でありながら、床の間がライトアップされているなど、近代的な雰囲気がプラスされた装いでありました。
都心という土地柄もあってか、生徒さんは都内で働くOLさんが多いようです。颯爽としたスーツ姿で仕事帰りにお茶の授業というのも、随分と格好良いですよね。
思ったよりも若い女性の先生にお茶を一服たててもらいながら、わたしは客としてのお手前を一通り教わり、また主人側としてお茶のたて方を学ばせてもらいました。

それにしても、お茶の作法というのは本当に美しいものです。
実はわたし、お坊さんの勉強をするために住んでいた京都でも、1年ほど週一回池坊大学という大学でお茶を習っていたことがあるのですが、あの頃も先生の動きの美しさに毎回目を見張っていました。あの美しさはどこからくるのだろう? 常々そう考えていたのですが、意外にもその正体は、わたしがお坊さんの勉強をしているうちにわかってきたのです。
お坊さんが行う様々な所作というものは、基本的にお茶のお手前と同じで、まったく無駄がありません。何かを行ったその返す手で何かを行う、そしてそれは常に最短距離をとるといったように、余計な作業がそこには介在しないのです。

そんなことに感心していますと、お茶の授業も終盤にさしかかり、何か質問はありませんか?と先生がおっしゃられたのでこんな質問をしてみました。
「お茶を振る舞うときに一番大切なことは何ですか?」 姿勢とかお茶の味とか、たくさん回答がありそうですけど、先生は一言だけ「おもてなしの心です」と答えられました。その答えにわたし、またハッとしてしまいました。さきほどの美しい所作という点もそうですが、おもてなしの心、これも仏様の教えと同じだ。そう思ったわけです。

皆さんは、仏壇の前で手を合わせるときお線香に火を点しませんか?
お墓参りをされるとき、きれいなお花を飾り付け、美味しいお菓子などもお供えしますよね?
それら一つ一つはお供え物とか、またその行為を供養するなんて言いますけど、この供養、もっと簡単な表現に言い換えれば「おもてなし」という言葉になります。
お墓参りに限らず、普段の生活でも私たちはお客さんを招いたら、美味しいお菓子を出したり、花を生けたり、場合によってはお香を焚いたりしますでしょう。自分の大事な人に快適に過ごして欲しいと思う気持ちや行動が、おもてなしという言葉の持つ意味です。

ちょっと専門的な話になってしまいますが、お釈迦様の教えの一番根っこにあるものは「諸行無常」、万物は変わり続けるということです。私たちも、犬も猫も、木も石も海も川も全てです。
変わり続けるから、完全ではない。全てのものは完全ではないから、皆同じ存在なんだよ・・・とお釈迦様は説いていらっしゃいます。
そういえば、茶室の入り口である「にじりぐち」。どんな人間でも腰をかがめなければ通ることのできないその小さな入り口は、お茶の世界では、誰もが同等であることを表していると聞いたことがあります。同じ存在だから皆が支え合って、お互いに「おもてなし」をしながら生きていくのです。

では、どんなおもてなしをすれば良いのでしょうか?
お茶をたてる主人は、お手前の中でお客に対してお尻を向けることがありません。失礼にあたるからです。でも一度だけ、「けんすい」という汚れた水を入れる器を片づけるときのみ、主人はお尻をお客側に向けてくるりと翻ります。お尻を向けることよりも、汚い水の入った器をお客に見せるほうが、もてなしの礼に反すると考えるからでしょう。
それは、そのことを知らなければ、確実に見逃してしまうであろう小さな動きです。これみよがしに、わたしこんなにもてなしてんのよ。俺は親切にしてやっているんだぞという姿勢ではなく、こういったさりげなさが、おもてなしの真髄なのだとわたしは考えています。

私たちは、完全でないから皆が同等です。だから、お互いにもてなし合って生きています。
そんなことを考えていると、道で行き交う人々がなんだか全くの他人に見えなくなってしまうことがあります。
お坊さんの勉強を始めてから、例えばレストランのトイレでぐちゃぐちゃになっているサンダルをきれいに直してみたり、電車で席をゆずることにためらいを持たなくなったり、そういった小さな行動の変化がわたしに起きました。普段は意識することがないのですが、きっとその変化は、仏様の教えがもしかしたらほんの少し、こんなわたしにも身についた証なのかもしれません。
だとしたら、やっぱりお坊さんになって良かったな、そんな風に思うのです。