『生と死が交錯する場所 −金剛頂寺−』 | ||||||||||
高知県安芸郡 極楽寺副住職 高知仏青会員 中嶋弘顕 |
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今日も遠方から、大勢の人びとが四国八十八ヵ所巡礼の旅にやってきます。 四国は、お大師さまがお生まれになり、厳しい修行を積んだ地です。のちにその足跡は、道程三百六十余里(約一,四四〇km)の遍路道(へんろみち)となり、長きにわたって巡礼者に歩き継がれてきました。 徳島県の第1番札所 竺和山霊山寺からはじまる四国遍路の旅は、巡礼者を一路南の方角へといざないます。高知県に入った遍路道は、紀伊水道が目の前にひろがる海沿いの道となり、大海の絶景がひろがる室戸岬へと至ります。 室戸岬の北西にある第26番札所 龍頭山光明院金剛頂寺は、若き日の弘法大師が厳しい修業をされた古刹です。「東寺」と呼ばれる室戸岬の第24番札所 室戸山明星院最御崎寺に対して、別名「西寺」とも呼ばれています。
四国には多くの弘法大師伝説がありますが、金剛頂寺には鎌倉時代の絵巻物『弘法大師行状図画』にある「天狗問答」という逸話が伝えられています。「天狗問答」とは、19歳のお大師さまが、この地での修行を妨げようとした天狗たちに仏の貴さを教え、西方の足摺岬へと追い払ったという話です。このほかにも、お大師さまの修行を邪魔しにあらわれた魔物の伝承として、室戸岬の毒龍の話が伝えられています。
また金剛頂寺は、お大師さまの灌頂名「遍照金剛」がつく寺ですが、足摺岬にも「金剛」がつく第38番札所 蹉陀山補陀落院金剛福寺というお寺があります。これら二つの寺院名からもまた、室戸岬と足摺岬との関連がうかがえます。 現在のような大師信仰にもとづく遍路は、江戸時代から現れます。詳しいことはわかりませんが、平安時代以降広まった大師信仰は次第に補陀落浄土信仰を吸収し、今日みられる遍路のかたちを整えていったと考えられています。大師信仰が庶民層へ浸透するようになると、それまで主に僧侶が修行していた四国の地に、在家の巡礼者が出現します。江戸中期には民衆による遍路が最盛期をむかえ、多くの人びとが四国を歩くようになりました。 現代の四国遍路には、全国から様々な目的をもった人びとがやってきます。 多くは観光として訪れる人びとですが、そのなかには自分自身を見つめ直す機会として四国遍路をする、いわゆる自分探しの旅をする人もいます。むかしから、四国は死後の世界と隣接している”生と死とが交錯する地”とされてきました。いま生きている自分を見つめるため、生と相対する死に向き合う・・・。四国を訪れる人びとは、現代においてもお大師さまとともにあゆむお遍路さんとなり、異界との境界を旅しているのです。 |