『 公共心の欠如 』   
滋賀県米原市  悉地院住職
豊山仏青副会長  安田学臣

私たちが暮らす社会は、公共性によって支えられて成立しています。
街中や路上、会社や学校、身近なところでは家族が集まるリビング、住居の周辺に住む隣人との関係など・・・。複数の人々が集まる場所に、一人一人の公共に対する心「公共心」が求められるのです。

公共心とは、ひとつの社会を構成している人々と円滑に接し、協力しあうために必要となるものです。しかし最近では、このもっとも重要であるべきものが、人々から失われてきているという指摘がたびたびなされています。

なぜ、いま公共心は失われつつあるのでしょうか? 公共心が失われる原因とは、一体何なのでしょう? 私がこうした問題を考えるようになったのは、先日、ある檀信徒の方から伺ったお話がきっかけした。

その日、普段から乗っていた電車が、突然の急ブレーキで大きく揺れるということがあったそうです。車内の揺れはかなり大きなもので、立っていた人たちはとっさに、手すりや吊り革にしがみつくほどだったといいます。何とか転ばずに済んだと思った矢先。

「なんで踏んだんですか!」

車内に、女性の大声が響き渡りました。声のした方を見ると、座席に座っている若い女性が、床に倒れたご婦人を睨みつけるという、尋常ではない光景が飛び込んできました。

どうやら、先ほどの揺れによって転倒してしまったらしく、そのときに女性の足を踏んでしまったことが怒りの発端のようでした。倒れたご婦人は、連れの方によって助け起こされましたが、それを見た座席の女性は、追い討ちをかけるように罵声を浴びせかけたそうです。

「このクソババァが!」

別に、わざと足を踏んだわけではありません。ご婦人は突然起こった大きな揺れによって倒れてしまったのです。
座席に座っていた女性は、全てを見ていたはずです。それなのに状況が飲み込めない。
ムッときた檀信徒の方は、すぐに女性をたしなめたそうです。すると女性は被害者である自分が何故注意されているのか理解できず、ただきょとんとしていたといいます。

この出来事は、すべての物事を自分本位にとらえることが起こしたものであるといえるでしょう。普通であれば、ご婦人が揺れによって倒れたと分かるはずなのです。それなのに罵声が飛んだのは、座席の女性の心に「自分は被害にあった」という思いが先行していたからです。

また、こんなこともあったそうです。駅のホームで電車を待っていると、「この人、並ぶ順番守っていないよね」と話し合う若いカップルがいたそうです。誰かが割り込んできたのかな?と思っていると、電車がやってきました。そのドアが開いた瞬間、人のすいている車内でカップルが向かった先は、シルバーシート・・・。

「他人のことはよく見えて、自分のことを省みることはない。まったく、どうなっているのか」

その憤りの言葉は、この社会が直面している現況を的確に言い当てたものでした。
最近、自己主張は必要であるという風潮があります。そして一部の人々は、これをまったく自分本位に解釈しているのです。つまりそれは、自分の思ったことを口に出しさえすれば、周りの人々が自分に都合よく対応してくれるという身勝手な解釈です。

たとえば、学校に無理難題をいってくる児童の保護者を、モンスター・ペアレントというそうですが、これらの人々は、おそらくそうした思考によって行動しているのでしょう。
そこに、「公共心」はかけらもありません。あるのは、いかにして自分だけが正当だと考えていることを相手に押しつけるかという攻撃的な心だけ。

本来、自己主張は公共性を前提として成立しています。主張は、それを受け止める相手がいるからこそ成立するもの。したがって、自分が暮らす社会全体に対する思いやりの心がない自己主張というのは、誰もが受け入れがたい、成立し得ないものなのです。
ところが、この前提はいまにも崩れつつあります。だからこそ、私たちはもう一度考えなければなりません。自分の主張は、自分だけなく周囲の人々にとっても有益な結果をもたらすのかということを。

いまそれを考えなければ、個人の自分勝手なだけの主張を許し、自分さえ良ければ他人はどうでもよいという社会が到来してしまうことでしょう。
残念なことですが、その兆しはもう現れ始めています。すでに私たちは、「公共心」の問題を見直さなければならない時に差し掛かっているのです。