『命をいただく』

 
    澁谷快阿

越後仏青
越後仏青太鼓隊【天鼓雷音】代表
新潟県燕市  本覚院副住職
 
 


 私は食べることが大好きです。よく「三度の飯より○○が好き!」という人がいますが、私は三度の飯の方が好きです。冗談のように言ってしまいましたが、食べるということは、人間が生きていくために一番必要なことです。食べなければ私達は生きていくことができません。食事をしてきたからこそ今日まで命をつないでこられたのです。

 世の中は様々な食べ物であふれています。ファミリーレストランや、コンビニエンスストアに入れば大抵のものは食べられますし、手に入れることが出来ます。しかしその反面、賞味期限の切れた食べ物などはすぐさま捨てられてしまいます。食の安全を考えれば、仕方の無いことかもしれませんが、素直に納得できないところがあります。三度の食事が当たり前の様になり、食べ物に対しての感謝の念が薄れつつあるのではないでしょうか。

 私達は食前に、いただきます、と言います。何気なく言っているように感じますが、とても大事な意味が込められています。一体何を頂いているのでしょうか。言うまでもなく、目の前にある数多くの命です。どのような加工をされ、如何なる料理になろうとも、もとは動物や野菜で、私達と同じ瞬間を生きていたのです。多くの命の上に立たせて頂いてこの命がつなげられることに対して、いただきます、と言うのです。

 また食後には、ごちそうさま、と言います。ご馳走とは、馳せ走ると書きます。昔は食べ物が中々手に入らなかったそうですね。自分が口にしているものは誰かが馳せ走り、用意して下さったものなのです。その事に対する感謝の気持ちを込めて、ご馳走様と食後に言うのです。とても麗しい風習だと感じます。

 私は、新潟県燕市にある本覚院というお寺の副住職として勤めさせていただいております。毎年、秋のお彼岸の時期に本覚院に於いて恒例行事があります。地元の三条・燕青年会議所の卒業生が主催して、「はらぺこ塾」という寺子屋教室を開いています。

 三条市と燕市周辺の小学四・五・六年生を対象に、一泊二日の日程で本覚院の本堂で寝泊まりします。「はらぺこ塾」の特色は名前の通り、子供達に腹ペコになってもらうことです。夕食は飴玉一個、翌日の朝食はリンゴ一個の八分の一と、可哀想になるくらい量が少ないのです。飽食の時代だからこそ、敢えて空腹の体験をして、普段食事が出来ること、多くの命の上に自分が生きていること、そしてご馳走をして下さるあらゆる方々への感謝の心を養うことが目的です。

 一泊二日の内容は盛りだくさんです。和太鼓教室に、戦時中の食糧事情についての授業、夕方はお風呂に入り、夜は写仏に肝試し。子供達にとっては、初めて経験する出来事もあったでしょう。しかし、最も重要な催しは最後に待っています。子供達の目の前で鶏の屠殺(とさつ)をやって見せ、その鶏を調理して二日目の最後の昼食に頂くのです。スーパーに行けば、様々なお肉がきれいに陳列されていますが、そこに至るまでの過程を知ることもとても大事なことだと感じます。もちろん事前に親御さんと参加する子供さんには屠殺のことは伝えてあったのですが、実際にその現場を目の当たりにすると目を背けてしまう子供達もいました。しかし、その中でも必死に命に向き合おうと最後まで見届けた子供達も大勢いたのです。

 子供達の姿勢を見て、私は今まで、食べ物の命にどのように向き合ってきただろうと考えさせられました。頂きます、ご馳走様と声に出してはいますが、心から多くの命に対して感謝の気持ちを込めていたか、決まりきった言葉を声に出していただけではないのかと、深く反省するようになったのです。

 二日目の昼食がやってきました。屠殺した鶏は、鶏鍋にして皆で頂くことになっていました。子供達にとっては待ちに待った食事のはずですが、屠殺を目の当たりにしてそのお肉を食べられるだろうかと私は心配していました。ところが、子供達は、誰に言われるでもなく手を合わせ、頂きます、食後はご馳走様でした、と言うのです。感謝の気持ちを込め、大切な命を頂いたことでしょう。人生に於いて、とても大事なことを学ぶことができたのではないでしょうか。

 私自身、毎年この行事がやってくると命の尊さを改めて実感します。私達の命は数えきれないほどの命の支えがあって生かされています。この支えられている命で、私は今後どのように行動して生きていくべきか、日々の精進を欠かさずに考えていきたいものです。