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【豊山仏青機関紙 豊友第132号】 平成20年8月29日発行
発行者:豊山派仏教青年会 真言宗豊山派宗務総合庁舎内 (直通)TEL・FAX03-5940-0585
発行人:鈴木道盛
編 集:豊友出版部

〜 も く じ 〜

>雅楽について  >感動の一歩先へ  >写仏はじめました  >編集後記
 

「雅楽について」
 東京2号 世尊寺 中 保之

 雅楽と聞いて何を連想されるであろうか。恐らく、先般の雅楽ブームによって「聴いた事は有るけれど詳しくは」といった方が多いかと思われる。そもそも雅楽とは、「正統なる音楽」を意味する音楽のジャンルを示す言葉なのである。そのジャンルには、国風歌舞(くにぶりのうたまい)や管絃・舞楽・歌曲が含まれる。

 五世紀から九世紀にかけて中国大陸や朝鮮半島から渡ってきたそれらの音楽は、九世紀

中頃になると日本人の感性に基づいた改作や創作がなされるようになる。当時の貴族社会において雅楽の習得が必須教養として広く浸透し、それにより雅楽というものが宮廷芸能として大成したと言っても過言ではないであろう。

 九世紀中頃に確立した、三管『鳳笙(ほうしょう)・篳篥(ひちりき)・龍笛(りゅうてき)』三皷『鞨鼓(かっこ)・太鼓(たいこ)・鉦鼓(しょうこ)』二絃『楽琵琶(がくびわ)・楽箏(がくそう)』を用いる演奏形式が連綿と現代に伝わっており、今なお当時とさほど変わらぬ形式で演奏され続けている事は驚嘆に値する。

 では、実際に演奏を習得しようとした場合、どのような手順を踏むのかを紹介したい。

 声明と同じく口伝によって伝承されていたため、その譜面を一読しただけでは、ただのカタカナや漢字の羅列でしかない。カタカナや漢字からなるその譜面を歌として覚える必要がある。それを唱歌という。篳篥という楽器は、ごく少数の例外を除きほぼ唱歌の旋律をそのまま演奏することになるため、唱歌の重要性は非常に高い。

 唱歌ができるようになったとしても、さらに壁は存在する。まず篳篥・龍笛に関しては、音が出ない。鳳笙は、その構造上音を出すのは容易ではあるものの、和音の組み合わせや音を変えるタイミングを習得することが容易ではない。洋の東西を問わず、いかなる楽器においてもそれを習得するのは容易ではないということであろう。

 しかし、苦しいばかりかというとそうではない。それら苦難を乗り越え合奏することができたとき、大法要において厳粛なる讃をお唱えすることができたときの法悦に匹敵する感動を覚える。

 わが国古来より受け継がれている「雅楽」を一人でも多くの方に体験していただき、その魅力を感じていただければ幸いである。
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感動の一歩先へ」
 埼玉4号 普門寺 鷲見 弘道

 現代社会において、仏教には何が求められているか。また、信仰ならびに信心というものは、人間や社会にどのような「力」を与えるのか。こうした問題について考えるため、私は今年から総合研究院養成所の布教コースに入所しました。ここでは、養成所に入って間もない5月に行われた、本山の牡丹期布教実習を中心に、実際に感じたことや考えたことを、簡単にお話したいと思います。

 布教や法話というと、どうしても仏教に

する硬い話をイメージしてしまいがちです。これは、一般の人はもちろん、教えを伝える僧侶自身についても言えることではないでしょうか。実際、私の場合も、牡丹期布教の事前指導時、法話を考えるにあたって、仏教的な知識をどのように聞き手に伝えるか、ということを主眼においていました。しかし、現実に本山でお話をしてみると、単なる知識の詰め込みでは、聞き手の心をつかむことはできない、ということを肌で感じることになったのです。確かに、仏教とはどのような教えなのか、ということをストレートに話すことも、時には必要であると思いますが、この時の経験は、“法話とはどんなものなのか”ということを改めて考えさせてくれました。

 実は、入所してすぐのオリエンテーション時、講師である先生から「自信教人信」ということを言われていました。その時は、自分の信仰や信心というものについて、あまり深く考えておらず、布教で必要とされる「知識」の習得のほうに関心があったのですが、本山での布教実習は、見事にこの言葉を体現させてくれたと思います。何かを「伝える」ためには、まずそれを自分で「信じて」いなければ、相手の心に届かない。しかも、信じるものは、他人から強要されて仕方がなく信じるといったものではなく、「自分で」見つけ、体得する必要がある。仏教をはじめとするさまざまな知識は、自分の「信心」を養うために必要なものであって、法話で直接使うようなものではない。このように考えてみると、多方面に関心を持っていろいろな知識を得ることも当然必要ということになりますが、その上で、それらを自分でいかに咀嚼し、「信」の部分をどう自分の中に位置づけるかということが、布教を行う私たち自身にもっとも重要であると気づかされます。牡丹期布教では、法話の経験を積むことができたと同時に、この「自信教人信」について自分なりに考えるという、良い機会を与えてもらったと思っています。

 ここで「信心」というものについて、自分が実際に見て感じたことを一つ紹介しましょう。本山の牡丹期実習時、毎朝本堂で勤行を行いますが、ある日の朝、一人のおばあさんが、勤行の間中、地面にひれ伏して観音様にお参りしていました。誰かに見られているからとか、誰かに強要されたからとかではなく、まさに自分の意思でそのようにしていたのです。仏様に自分自身を委ねるというような、「素直」な気持ちから出たと思われるこの行為は、純粋に私を感動させました。私はこれが「信心」の具現化したものだと思います。つまり、自分の中に本当に信じているもの(それはもちろん、「正しい」ものに対する信心でなければならないが)があれば、それは人を感動させることができるのです。逆に言えば、人を本当に感動させるためには、「信」という要素がなければならないとも言

えるので、先に述べた「自信教人信」こそ、確かに布教の根本なのでしょう。その意味で、このおばあさんの「信心」は、まさに私たち布教者の目指すものに通じていると、私は感じました。

 法話をはじめとする布教の意義は、こうした「感動(感心ではない)」を呼び起こすと同時に、その感動を実際の「行動(実践)」の域にまで高めてもらえるように伝えることだと、私は考えています。一言で言えば、「感動の一歩先へ」。今後はこのスローガンを意識しながら活動し、また考えていこうと思います。
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「写仏はじめました」
 東京4号 勝曼寺 田口 良運

 私の自坊では今年の一月から、毎月一回写仏の会を始めました。

おかげさまでお檀家さんを中心に毎回20名程度参加していただいております。写仏は絵の上手い下手は関係なく、同じ仏さまを描いてもそれぞれ全く違う、自分だけの仏さまが出来上がります。それだけに皆さん大事に自分だけの仏さまを持ち帰っていかれます。「なんだかんだで自分が描いた仏さまが一番良く見えるのよね」とおっしゃる方もいま

す。また、小学生の男の子も毎回欠かさず参加してくれています。小さな男の子が一生懸命、仏さまを描いている姿には感動すら覚えます。写仏の会に参加する動機は様々であると思いますが、参加している方々を見ていると、写仏というのはとても有効な布教手段であると感じています。また、小学生の男の子も毎回欠かさず参加してくれています。小さな男の子が一生懸命、仏さまを描いている姿には感動すら覚えます。写仏の会に参加する動機は様々であると思いますが、参加している方々を見ていると、写仏というのはとても有効な布教手段であると感じています。

普段の仕事や家事などから完全に離れて、仏さまと共に心静かなひと時を過ごすことができる、それが写仏の会に参加されている皆さんにとって、とても貴重な時間になっているようです。

まだ写仏の会を始めてたった五カ月ですが、もっと多くの方々に写仏を体験していただきたい、そう強く思います。

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 編集後記


 『猪突猛進』向こう見ずに猛然と突き進むこと。と『広辞苑』には記されていた。あまり良い意味では使われない言葉であろう。しかし、猛然と突き進むことの大切さを感じることがあるのも事実だと思う。

 過去に、「頼んでも出来ないような仕事を、頼まれることがあれば、絶対に断ってはいけない」と教えていただいたことがある。猪のように、周りを見ないで突き進むのは良くないが、失敗を恐れずに突き進んでいくことは、とても大切なことであると思う。

 今年度より、広報次長として『豊友』、並びにWEB委員の皆様と共にインターネットを担当させていただくことになりました。向こう見ずにならぬように、猛進していくつもりでございます。会員の皆様には、今までと変わらぬ御支援御指導を宜しくお願い申し上げます。
豊山仏青広報次長 田中宥弘
まんが 作/画:田中礼奈

 
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