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【豊山仏青機関紙 豊友第133号】 平成20年12月15日発行
発行者:豊山派仏教青年会 真言宗豊山派宗務総合庁舎内 (直通)TEL・FAX03-5940-0585
発行人:鈴木道盛
編 集:豊友出版部

〜 も く じ 〜
 〜第十四回 智山・豊山・新義青年会合同結集〜
>順調に成長するということ 宮寺光明 
>第十四回三派結集に参加して 穂積慶範 

 〜真言宗青年連盟 第29回結集 清荒神大会〜
>清荒神大会に参加して 平林寛征 
>初めての結集 安晝明正

>編集後記
 
第14回 智山・豊山・新義青年会合同結集
『祖師讃仰』<伝えたいみおしえ>


「順調に成長するということ」

 千葉3号 高蔵寺 宮寺光明


 第十四回 智山・豊山・新義青年会合同結集根来寺大会が、十月十五・十六日に新義真言宗総本山「根来寺」にて開催されました。

 私自身も仏青会員になってから七年が経ちますが、今回初めて三派合同結集に参加させていただきました。何分田舎者ですので、伝統ある結集大会に参加させていただいて良いのかどうか考えましたが、経験したことの無い結集大会に参加してみたい。そう考えて参加させていただきました。

 私は、地元の少年野球の監督を務めさせていただいております。野球を長年経験してきましたが、子供たちにとっては初めての世界です。また、親御様にとっても同様です。少年野球で、他人の私に注意され涙する子供たち、それを見守り続ける親御様。グラウンドの中では全力疾走をし、知らない人がグラウンドに来ても、全員で声を合わせて挨拶をするなど、日常生活では経験することのない世界です。そのような、初めての経験から何かを学び成長する。「順調に成長する」それこそが、一番難しいと私は思っております。

 自ら初めてのことに挑戦してみる。そして、自分の目や体で確かめる。その行動が、人間としての幅を広げることになると信じております。

 今回の結集大会も、各方面の諸先生方による根来寺伝法堂での講演会や、菩提院での読経など、貴重なお話や経験が出来、有意義な二日間を過ごさせていただきました。この貴重な経験を生かせるかどうかは私次第ですが、人間として、僧侶として、成長していきたいと願っております。


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「第十四回三派結集に参加して」

 埼玉3号 龍昌寺 穂積慶範

 私は今回行われました三派結集が、はじめての参加となります。三派の僧侶が集い普段は、共に学ぶ機会は少ないですが、今回結集を通して良い経験が出来た事にとても感謝しております。

 今回の三派結集は、平成201015日から16日の二日間にわたり、新義真言宗総本山根来寺にて行われました。根来寺を訪れるのは、これが初めてで、お寺の名前は知っていましたが、和歌山県のどのような場所なのか知りませんでした。山内に入ると山と自然に囲まれた静かな場所に根来寺はありました。そして、大日如来、金剛薩?、尊勝仏頂を本尊とする伝法堂を会場に、荘厳な中で興教大師についての講演が行われました。

 1日目は、小島佑雄先生より「興教大師和讃」について。和讃についての解説後、全員でお唱えしました。「興教大師和讃」は、全100句、8句を1節とした12節で構成された、興教大師の生涯を短く略し、それでも充実した内容でまとめられた和讃だそうです。

 2日目は、はじめに坂本正仁先生より「中世後期における田舎の真言寺院・僧侶と根来寺」について。根来寺と教学を中心とした歴史・思想、教学を学ぶ真言僧侶と根来寺等の講演を受けました。新義真言宗の基礎的な部分を深く学ぶことができたと思います。

 次に中川委紀子先生より「覚鑁上人草創大伝法院伽藍と根来寺伽藍」について。宗教空間としての伽藍や根来寺の歴史や文化等の講演を受けました。根来寺を文化的な面からも歴史を学ぶことができたと思います。

 講演終了後、奥院、円明寺、菩提院と遺跡を巡拝し、菩提院では理趣経をお唱えました。そして閉会式では興教大師和讃をお唱えし、二日間と短くも内容の濃い合同結集根来寺大会は無事に終了しました。

 私はこの結集を通して、根来寺と新義真言宗、智山・豊山・新義の再発見をし、そして興教大師覚鑁上人のみおしえを学び、宗派や僧侶の未来を考えさせられたと思います。

 今回の合同結集で学んだことを、今後の僧侶としての心の糧として、これからも精進していきたいと思います。


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真言宗青年連盟 第29回結集 清荒神大会
『現代に生きる真言青年の役割』
<挑戦 〜さらなる飛躍〜 >


「清荒神大会に参加して」

 福島1号 長谷寺 平林寛征

平成二十年十一月十九日・二十日の二日間に亘り、荒神信仰の聖地である清荒神清澄寺において全青連第二十九回結集が開催されました。全国各地より結集した多くの真言宗各派青年僧侶の若い熱は、つめたく吹き荒ぶ木枯らしを熱気へと変えました。

 初日、宝塚ホテルの宝寿の間で二胡と三味線の協奏がありました。かたや日本国は津軽の楽器、かたや中国の楽器であり、見た目も随分と違いますが、二つの演奏は見事に溶け合い、たいへんすばらしいものでした。二つが似たようなルーツをもつ弦楽器であるということ、または卓越した演奏技術に由る物理的な、たんなる音楽的な調和というようなものではない、もっと何か深いところでの調和というものを感じました。ではいったい何か?それはこの二人が兄と妹であるということに由る精神的な調和であろう、同じ血が流れる二人の演奏はおのずから調和を得るのでありましょう、単なる音と音の調和ではなく、血と血の調和、心と心の調和。私はそのとき、先に行われた清澄寺本堂での記念法要を思い出していました。派を異にする僧侶が堂内入り混じるなか、その無数の声はぶつかることなく溶け合わさり、まさに荘厳な響きでした。何故、声は調和し、心に響くものになったのか?その答えが会場の正面の壁に掛けてありました。

「お大師さま」。

 派が違う、それによって違うところはたくさんあるでしょう。そもそも人間は一人一人みな違う、二胡と三味線のように。しかし、私も含め法要に参加した者たちはみな、お大師さまを信仰しています。それは、指に針を刺したときに出る血のように、確かに私たちの体の中を力強く流れています。その同じく流れる血潮が、声の調和を生んだのです。

 利害による結びつきとは違い、この血の結びつきは固い。固い結びつきは大いなる力となり、きっと私たちは社会に貢献することができるでしょう。結集を終えた今、そう強く信じています。


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「初めての結集」
東京1号 観明寺 安晝明正


 十一月二十九日、十二時半、清荒神 清澄寺において、全真言宗青年連盟第二十九回結集 清荒神大会が雲ひとつない晴天の中での結集となりました。はじめに、前仏青会長で現全真言宗青年連盟理事長、今回の大会委員長の坂井智空会長が挨拶をされ開会式が行われました。来賓では真言宗泉涌寺派管長、真言三宝宗管長など参列されていました。

 次に記念法要を清澄寺本堂において行われました。凛とした寒さの中、豊山派仏青の鈴木道盛会長が奠供をお唱えして法要が始まりました。職集は各派の代表の方で、唱礼、理趣経、仏讃を他派の方がお唱えしました。豊山の声明しかほとんど聞いたことがないので、他派の声明はとても新鮮でした。また、二百人以上の真言宗の僧侶が集まってお唱えする理趣経はとてもすばらしかったです。

 ホテルに戻ってからは記念講演が行われ、津軽三味線と二胡の演奏を小山 豊さん、小山五月さん兄妹が行われました。三味線がどのように伝わって現在に至っているのかの話を交えながら、コラボレーションの演奏や、日本の童謡を取り入れた演奏を行われました。じょんがら節を生で聴いたことがなかったのでうれしかったです。二胡の演奏の中では馬の「ヒヒーン」という鳴き声を真似るという部分があり、それを披露していただき、日本と中国の楽器の共演、動物の鳴き声を表現するという発想に、私たち真言僧侶の可能性を重ねて感じる事が出来ました。その後、同じ会場で懇親会が行われ、初日は終了しました。

 二日目は九時より、笑福亭 呂鶴師匠が記念落語を行いました。宝塚出身ということで宝塚の色々なお話を聞きまして、しゃべり家さんだけあって、いつの間にかお話の世界に引きこまれて、あっという間に一時間が過ぎていました。東京で聞く落語と違い、関西は関西弁のままで落語をするというのもこのとき初めて知りました。

 続いて、記念講演で元野球選手の金村 義明さんがお話をなさいました。プロでやっているときのお話を色々なさいました。選手のときでは言えない、暴露話をしてくださり、とてもおもしろかったです。

 初めて結集に参加しまして、すべてが初めてで目新しいことばかり。あっという間の二日間でした。次回は豊山派が担当ということで、今からどんな結集になるのか楽しみです。


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まんが 作/画:田中礼奈

 


編集後記

 『滴水嫡凍』一瞬の間も気をゆるめることなく、仏道修行に励むこと。もっぱら修行僧に使う言葉である。

 過去に一度、一人の師匠から「塔婆を書き損じたことは、一度もない。一生懸命に、集中して書いていれば、間違えるわけないのだ」とお叱りを受けたことがある。テレビを見ながらだとか、音楽を聴きながら、出来るわけがないのである。今でこそ、そういったことはしなくなったが、師匠の言葉がなかったらと思うと、何の気構えもなしに、仕事として塔婆を書いていただろう。

ひき逃げをして、そのまま何キロも引きずりながら走る。という耳を疑うようなニュースが流れていたのは記憶に新しい。しかも、飲酒運転だそうである。中には、救命処置を施せば助かる命もあったそうである。

 「ながら運転」といって、免許を取得する際に必ず言われる言葉であるが、何かをしながら、何かをするというのはとても難しい事。車という凶器に、酒を飲みながら運転をする。どれほど危険なことであるかは明白である。一日も早く、このような悲しい犯罪がなくなるのを祈るばかりである。

豊山仏青広報次長 田中宥弘

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